容器が中身を規定する
という言葉を知ったのは高校の頃だった。
そんな言葉を想起した。
高校の頃、坊主になりたいなと思ってた。
浄土真宗は肉食妻帯が認められているのであれば、
市井に暮らすのと何が違うのか?
変わらない気もして
それは良いなと。
今からでも成りたい気もする。
「出家とその弟子」やら「雁の寺」やら
実家のそばの坊主やら同級生の坊主やら
プランナーやってて会社たたんで坊主になったひとやら稲盛和夫やらみてると
悟りなんて得なくても良いのだろうとも。
仏陀自身、ほんとに悟りを得たのか?
と疑問に思う。
神学校に行ったり、仏教大学に入らなくて良いならなっても良いんだが。
この映画の主人公は人殺しの刑務所出。
俗世の汚濁にまみれた人間だからこそ
ほんとの牧師より信者に寄り添い、親しまれたんでは。俗世にまみれ、その欲望や煩悩を経て、それでも成りたいと思う者から選ぶべきでは?
医者や学校の先生にも言えると思うんだが、
大学やら養成機関からそのままなるんじゃなくて、会社などの一般企業や百姓やら店やらの就業経験者からの選抜にしたらいいんじゃないのかと思う。まあ、学校自体の存在目的や機能も問われますが。自衛隊あがりばっかりってのも困りますが。
結局、国や政府がどうしたいか?その国に対して国民がどうさせたいか?つまりは、国民自身、自分自身がどうありたいか?に寄るのかになると思いました。